2005-12-01

顔と表情は分離できるのか。
能面の意図。
そもそも顔とは表情ではないのだろうか。表情はまさに今、目の前で生きている人そのものだ。鏡の前であれば、自分の顔は生きている自分だ。生きているということが表情の真実であるし、表情のない顔はありえない。能においてもさまざまな表情の在りようを表現する究極の手段に能面が機能を発揮する。
表情の豊かさはまた、目の前の人の関心が豊かな周囲の環境、社会へ向いていることを示している。生きているということの証しが表情に表れる。

2005-11-30

制作するということ

ものをつくる、制作するということは言葉で考え、記述することではない。ひとはものをつくるときに、場合によっては道具を使う。しかし、道具を使うことで経験をどうにかすることができるものではない。経験はコントロールできるものではないから。
そして、ものをつくるときはどんなものができるか本人にもわからない。やってみなければわからない。科学するということはこの「やってみてわからないこと」に近い。
できたものを見てあれこれ考えたり、評価したり、利用したりするのは第三者だ。もしくは、自分であっても既に制作したときの自分ではない第三者だ。ここに行為のもつ不思議な力がある。

2005-11-26

がまんする

がまんするということは夢をもっていることと同義だ。うまくいかない事態に遭遇したとき、こんなことでは終わらない、へこたれないという意味で自らを励ますときと、どうせどうのこうの言っても同じ結果だというあきらめのときがある。そして、がまんという言葉の語感には積極的な響きがある。思いを内に秘めて、次なるチャンスを待つという意思がある。集中力を高め、その場で対決せず、じっくりとときを待てる余裕がある。

2005-11-08

想い出

想い出はどれだけ古くても今という時をきざんでいる。
今、目の前に想い出が現前すると想い出は想い出でなく、現実の出来事としてたちまち姿を現す。年寄りが想い出ばかりを繰り返し話すのも、今、この時に目の前に想い出の楽しい一瞬が現前するのを夢見て話すのに違いない。夢の夢たる所以もそこにある。

2005-09-18

かなしさ

かなしさは、互いに共振するものが見当たらないとき、解決策の見当たらないときに突然訪れる。なぜわからないのか、相手の力の誇示、拠ってたつ根拠、言葉の意味、あふれる情感をあざわらうかのように壁となって立ちはだかる社会が、約束が、法令がかなしさを倍化させる。冷静にコントロールされた頭脳にも理解の及ばないかなしさ。人がかならず経験する感情のたかまりが、かなしさの背後に厳然と存在する。そして、ほとんどすべての人がこの悲しさの経験を糧に残りの人生を過ごしているのだ。勝者にはわからないかなしみの中で。

2005-09-10

合理的であること

合理的であることは正しいことと同義だろうか。
合理的にものごとを判断することは正しい判断となるだろうか。現代の生活環境では合理的にものごとを決め、判断していかないとますます住みにくくなるという現実がある。年寄りには世の中が狭くなっていく実感がある。これはどういうことだろう。合理的なしかけがそれを利用する人と利用しない人を分割し、階層化しているわけだ。情報が遮断され、利便性から取り残されるために世界が狭くなっていく。合理的というしかけの中には合理的でないという範疇がかならず含まれる。ここに問題の発生の原因がある。

2005-04-18

又兵衛桜


matabeisakura Posted by Hello
又兵衛桜の威容

2005-04-09


cherry tree Posted by Hello

さくら


今日は近所の川沿いに散歩をしたが、ちょうど桜が満開できれいな花を咲かせていた。

2005-03-06

水は生命の根源にある。それは地球が酸素を多く含む惑星ということとつながっている。水は生物の体を形成し、食物連鎖を構成し、空気中の酸素を取り込んで腐敗をもたらし、あらたな生命の準備をする。燃焼のエネルギーというかたちで効率的ではないが循環を構成する。水の不思議さはその存在の態様にもある。流体の自由さはそのもっとも奔放なかたちでわれわれの前に姿をあらわす。ミッシェルセールも、鴨長明も水に意思を感じたにちがいない。

2005-02-21

消化力

生命はなんでも消化し、自らの栄養にしてしまう。量的に適度に吸収し、十分消化に時間をかければ自分のものにしてしまう。荒廃した大地も、水さえあれば生命が生れ、繁殖する。植物が生育すれば、小動物が生れ、食物連鎖にしたがって大きな動物も生活できるようになる。この自然のバランスが崩れると生命は生存が危うくなる。ほとんどの有機物、無機物は生命にとって必要なものとなっている。大量に摂取すると毒になるものでも適度にとれば、長命をもたらす。

2005-02-19

認識と操作

混沌とした環境に人類固有の整理分類を行うには言語が密接にからんでいる。世界の範疇化に語彙の多様性があるように範疇を操作する文法にも多様性がある。「ワケル」という分類行動は「ワカル」ことによって固有の様式を生み出し、価値観、意味づけ、イメージ、知識、経験がむすびついていく。言語にはこうして文化が埋め込まれる。言葉とそれを操作する規則を共有するだけでなく、範疇にむすびついた文化の共有があってはじめて相手の行動や反応を予測しうる。

2005-02-15

春が近いです

近所の川の土手で桃の花が咲いているのをみつけて近づいて1枚。背中側を車が相当なスピードで走り抜け、危ないのですぐ立ち去りました。

2005-01-22

次元を貫く情報

重力波が宇宙のどこかで生じれば、空間のゆがみとなってわれわれの地球にも伝わるはずだ。これは、宇宙が閉じた系であるという前提を記述したからで、そのコンテクストを外部から鳥瞰するには外部からの情報がこの宇宙に到達しなければ不可能だ。はたして、情報は来るのか。あるいは来ているのか。あるいは既に来ていたのか。わずかな差異も見逃せば永久に謎となってしまうであろう。

2005-01-21

知覚の統制

覚醒した知覚は常に現実という規制によりチェックされているが、夢は統制を受けていない。外的刺激を受けない世界はひとつの閉じた空間だ。これを客観的に見ることのできる観測者は、外部にいる。卵子が受精する瞬間、その位置は外部からの全く新しい情報となる。分割はここにはじまる。

2005-01-10

ヒヨドリ

マンションのベランダにすずめ(ビタキ)がよくくる。ちぎって置いたパンくずなどを見つけると2~3羽が食べにくる。
人間が近づくと逃げるけれども、物陰からじっと見ていると時には親子で食べに来ている。
平和に食べているのをじゃまするのは、ヒヨドリ。やかましいし、いじわるだ。だから、我が家の家族はヒヨドリがきらいだ。

龍のひげ


龍のひげ
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京都城南宮の新しくなった庭園で「龍のひげ」(お市の目玉)を見つけました。青い実がついたところはここだけでした。昔はよく見かけましたが、最近見かけなかったのでなつかしく思い、カメラに収めました。

2005-01-06

科学的態度


大きなコンテクストが小さなコンテクストに及ぼす影響は無視して考える、少なくとも、それについて考えるのは後まわしにする。・・そうやって問題を単純化するのがよいのだという態度をわれわれは科学的態度として教え込まれている。


そこでは、観察者と対象が分離されている。複雑性の縮減が推奨されているというわけだ。


捨象される漠とした関係性、大きなコンテクストへと階層を一段上がったメタ・テクストへと遡行していく関係性の連鎖が科学的態度では無視されている。


2005-01-05

認知バイアス

このたびのインドネシアの巨大地震で動物が危機を免れていた、或いはゾウが事前に津波を察知していたという報道に接し、このようなこともあるのかと職場で話題にしたら、それは「認知バイアスだ」と解説された。言葉の正確な意味を知らなかったのでここで確認して公開しておく。この報道をどう読むかはまさに読者にかかっているといえる。

2005-01-04

正月の風景

正月、しめ飾りをつけている車はごくわずかになってしまった。我が家の住んでいるマンションでは駐車場15軒の自動車すべてしめ飾りなし。3が日で外出時すれ違う車に1台だけ見かけた。一方、門松は一般の家では見かけないが、神社、小売店などで立派な門松はいくつか見かけた。もはや個人の家で門松をたてて正月を祝うという当初の意味はうすれて商業主義の神社や小売店の客寄せツールになってしまったようだ。そういう意味では年末のクリスマスツリーと同じかな。ほとんど正月ということの意味をなしていない。どんどなどもつながりが断ち切られている。米作の歴史は忘れられようとしているともいえるだろう。

2005-01-03

初詣

今日は春日大社へ初詣にいった。神木の前で記念撮影。


050103-kasugataisha
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2005-01-02

京都植物園にて

京都植物園へ行ったときに見かけた名前も知らない美しい花です。目の前にぶら下がっていたので思わずカメラを向けました。
at kyoto botanical garden
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2005-01-01

音楽


音楽は反復だ。その中には同じクラスの中での同一性の確認がある。繰り返し、繰り返し同じことを確認する。そういった意味でモーツアルトに見られる変奏の繰り返し、ビートルズがインド音楽から学んだリフレインは核心に触れる音楽という気がする。すばらしい音楽は例外なく繰り返しが見られる。


初鶏の気合


友人からの年賀状で「五十路終盤初鶏の気合受く」というすばらしい句に出合いました。



身も心もリフレッシュして新年を迎え、今年こそよい年にしていきたい、気合を入れて鶏にまけずに時を告げたいと思います。